戯画調査隊

アニメを観て思ったことをひたすら書いていきます。本について書くこともあるかも?

『やがて君になる』6話 侑と燈子を隔てる、分厚く不可解な境界

 『やがて君になる』6話では、侑と燈子を隔てる境界が、さまざまな要素を用いて描かれていました。

 一本の線で境界が描かれるだけではなく、多数の線や、幅や厚みのある構造物、さらには音韻や陰影によっても境界が描かれています。

 

 はじめに登場する境界から、実に仰々しいです。侑と男性教師を隔てるように映される、学校の外壁と水道管です。

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 このカットでは校舎の外にカメラを置いて、外壁と水道管を画面の中央に来るように映しています。その両脇の窓越しに資料室の中が覗いて見えていて、室内の左に侑、外壁を挟んで右に教師がいるという、印象的なカットです。

 外壁がその分厚さをもって、侑と教師を力強く隔てています。また外壁だけでは境界の演出であることが伝わりにくそうですが、その真ん中に水道管が走っていることにより、境界の描写であることが明示されています。構造物を利用した演出の計算高さに、舌を巻くばかりです。

 実際のところ郁と教師は同じ資料室の中で向き合っていて、二人の目の前には隔てるものが何もないはずです。しかし二人の間の空間が、私たち視聴者に対しては遮蔽されています。そこに何かが隠されているかもしれないという感覚が不気味さを際立たせます。

 外壁によって隠されているように感じられるものは、燈子の姉にまつわる事情ではないでしょうか。それを教師は知っていて侑は知らないということが、二人の間の隔たりです。

 燈子の姉が文化祭で劇を演じようとして、それを果たせずに亡くなってしまった。燈子は姉が果たせなかった願いを叶えようとしている。燈子の重苦しい実情に、侑は初めて向き合うことになります。侑が感じる重圧と不安を、分厚く寒々しい外壁が物語っているようです。

 

 廊下で教師が侑に燈子の姉のことを語るシーンでは、窓枠が境界線として侑の前を遮っています。

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 次に廊下を歩いていく侑を、またも校舎の外から映したカット。

 侑が複数の窓枠を横切っていきます。事情をなかなか語らず他者を寄せつけない燈子の内面に、侑はなんとか近づいていこうと模索する。そんな侑の果敢さが感じ取れます。

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 次に登場する境界は、踏切にある幾重もの線です。

 架線に電柱、遮断桿とそれに付属する布。画面が多数の線によって、これでもかとばかりに覆い尽くされています。

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 そして次のカットでは、踏切を渡る郁と燈子が横から映されています。線路が境界線になっているだけでなく、背景にある何本もの架線や柱のうちのいずれかが、一緒に歩く郁と燈子の間に入り込んで、常に二人の間を隔てています。近くにいるにもかかわらず隔たりがあるという、絶妙な境界になっています。

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 電柱と電線、街灯も、多数の線でできた境界となっています。

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 次に川のカット。川や橋や飛び石といった、境界の役割を果たすものばかりでできた舞台です。

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 川岸に向かって階段を降りていく燈子が、侑に呼び止められて振り向きます。ここで二人の顔に差した光と影の線も境界線のように見えます。

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 階段のそれぞれの段差も、多数の線でできた境界になっています。また侑と燈子の立ち位置の高低差、という境界もあります。

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 侑が燈子の姉のことを知ってしまったことに燈子は失望し、飛び石を渡って対岸へ向かっていきます。飛び石を一つ飛ぶごとに、燈子は侑との間に境界線を増やしていきます。また背景にある橋脚も、幅と厚みをもった境界になっています。

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 このシーンでは視覚以外の要素でも境界が描写されています。

 飛び石を渡る燈子の足音は、トタッ、トタッ、とステップを踏んだリズムになっています。それに対して階段を降りてくる侑は、トタトタと連続した普通のリズムの足音を立てています。

 「飛び石を渡る足音のリズム」というものは、日常の中では珍しいもので、これも燈子が侑を拒絶するための境界として作用しています。

 

 そして侑と燈子の隔たりが決定的になるシーン。

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 「そんなこと死んでも言われたくない」と燈子が侑を突き放すと同時に、燈子の顔が陰に覆われます。「光と陰の移ろい」という捉えどころのないものまで、境界となり侑と燈子を隔ててしまうのです。

 この陰の正体が橋の上を走る電車のものであることは、踏切の警報機の音や走行音、そして次のカットで電車本体が映されるよってわかります。しかし電車が陰の描写よりも後に映されるという順番によって、得体の知れないような感覚が引き立っています。リアリティの説明を後に回すと、現実の物事でもファンタジックな演出になるという好例です。

 また陰が差すという描写だけでは、境界の表現として読み取ることは難しいところです。しかしこのシーン以前にいくつも境界の描写を積み重ねてきたうえで、侑と燈子の隔たりがセリフによって決定的になる場面で描かれているので、この陰が境界の表現であることは明確に伝わります。捉えどころのない境界がたしかに存在していることを見せつけられて、侑がこの境界を越えることなど不可能ではないかと思わされます。

 

 しかしながら、このあと侑は境界の性質を逆手に取って、見事に燈子の側に立ってみせます。境界をかいくぐる侑の秀逸な手練手管についても、今度書いてみたいと思います。

『万引き家族』 - 信代がじゅりとの境界を越えるまで。

※ネタバレありです。ただし映画館で観たときの記憶をもとに書いているので、内容に正確でない部分があるかもしれません。ご了承ください。

 『万引き家族』はおもしろい。寄り添うようにして観たい映画。

 こう言っては良識を疑われるかもしれませんが、私にとって『万引き家族』はとてもおもしろい映画です。

 あの疑似家族の面々が愛おしくて、観ていて心地よく、くすっと笑えて、しかし後半の顛末にはやるせなさを感じてしまう。エンターテインメントとしてどハマりしたのです。

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  どうしても本作は社会的意義のようなものを題材に論じられがちですが、まずは社会や善悪などを離れて、あの家族を見たままの感覚を私は大事にしたいです。

 その感覚を徹底的に掘り下げたら、あとは観客おのおのの価値観のままに、どこかにいるかもしれないあの家族のような人々に思いを寄せられたらいいのではないでしょうか。それしか言えない。それしか言えないところにすごく深いものがあるから、『万引き家族』は傑作なのだと思います。

(ただし、この『万引き家族』そのままの人々というのもまた現実には存在しません。彼らは想像上の家族です。想像上の人々だからこそ、現実のいろいろな人へ思いを致す架け橋になってくれるのです。)

 

 そんなわけで、『万引き家族』の登場人物たちになぜ私が愛着を持てたのかを読み解くべく、本作の演出について語っていきたいと思います。

 今回は序盤で信代がじゅりを厄介者扱いしていたところから、じゅりを実の親に返すことを拒んで自分の娘のように慈しむに至るシーンについて語ります。

 

 ちょうど先日、塩田明彦映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』を読んだので、この本の解説を頼りに読み解きました。本書に書いてあった、境界を越える動き(動線)、顔による表現、動きによる表現の3つが、今回扱うシーンにはっきりと見て取れます。

ガラス戸を隔て揺れる、信代の心

 序盤に治と祥太が万引きした帰り道にて、日が暮れた時間に一人で家にいたじゅりを、治たち疑似家族の暮らす平屋に連れて帰ります。治の妻の信代は居間に入ってきたじゅりを見たとき、2つの心の間で揺れ動きます。2つの心というのは、じゅりを厄介な物として扱う心と、じゅりを娘のように思う心です。まずこの信代の心境の揺れについて読み解いていきます。

 

 治はじゅりを居間に上げて、コロッケなどを食べさせようとします。その様子を信代は台所から見ています。

 台所と居間は狭い廊下で隔てられていて、台所にはガラスの引き戸があって、この戸が半分閉じています。このガラス戸が境界としての役割を果たし、信代とじゅりとの隔たりを表しています。ガラスが擦れていて半透明になっているのもニクいですね。

 

 信代は治に「もっと金になるもの拾ってきなさいよ」「通報される前に返してきな」と告げます。この言葉を発しているとき、信代にとってじゅりは物でしかありません。金にならないどころか食事をして金を減らしてしまう厄介な物であり、外の人間に見つかれば犯罪者として扱われかねない危険をはらむ物でもあります。

 

 しかしこれらの言葉を言う合間に、信代はじゅり本人に対しては優しく声をかけています。小さな女の子への慈しみが感じられる声音ですが、信代がそれ以上の感情をもってじゅりを見ていることが少し後の描写から見て取れます。

 信代が「通報される前に返してきな」と言った後に、信代が顔を動かして擦れたガラス戸の後ろに隠れます。そして信代が再びガラス戸の脇から顔を出したとき、信代の視線がじゅりのほうをじっと見つめているのです。じゅりに対して母と娘のように接することができないかと、淡い期待を抱いているものと想像できます。

 ガラス戸に隠れる前と後とでじゅりへの眼差しが変わるように、信代の心はじゅりとの隔たりを越えようかどうか逡巡しているのです。

 

境界を越える。

  そして治と信代とでじゅりを家に返しに行こうとしたときも、信代とじゅりの間には境界があります。治がじゅりを背負っているということが、その境界です。信代とじゅりは同じ地面を歩いておらず、また治とじゅりは身体の接触があるのに対して、信代にはそれが無いのです。

 

 しかしいよいよじゅりの家の前に来て、じゅりの両親の罵り合いを聞きつつも治がじゅりを返そうとしたとき、この境界が破られます。

 治がじゅりの家の様子を覗こうとしてじゅりを背中から降ろし、じゅりの肩に信代が手を置きます。そしてじゅりの母親が「産みたくて産んだんじゃない!」と叫んだとき、信代は座り込みつつじゅりを抱きすくめます。

 

 ここで『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』にて書かれていた、3つの演出が読み取れます。境界を越えるということと、顔による表現と、動きによる感情表現です。

 境界を超えるということは今まで述べてきたとおりです。信代とじゅりは、治たちの家の中ではガラス戸で隔てられていて、またじゅりの家まで来る際も、治が背負っていることによって隔たりがありました。しかし信代がじゅりを抱きしめるという身体の接触によって、境界が無くなりました。

 

じゅりを離したくないという、信代の顔と動き。

 またこのとき、信代は言葉を発することなく表情も無くします。信代役の安藤サクラさんは、被写体として撮られる顔を作ることによって、複雑な感情を表現しているのです。

 じゅりの母親の「産みたくて産んだんじゃない!」という言葉に対して、悲しい顔をするでも怒りを表すでもないんですね。ここで無表情になるからこそ、信代の中で複雑に感情が渦巻きつつも、その感情が単なる怒りや悲しみ以上の、じゅりへの慈愛というものさえも凌駕する激しいものであることが伝わってきます。

 

 さらに信代がじゅりを抱きしめつつ座り込んでしまうという、動きによる表現も行われています。

 あれだけ闊達で口数の多かった信代が、力なく座り込んで無言になってしまうのです。それでいながら治がじゅりを引き離そうとしても、信代は頑としてじゅりを離しません。普段は元気に動く信代だからこそ、静かな動きに強い感情が宿って見えるのだと思います。

 

 このようによく計算された演出と演技によって、信代がじゅりに強い思い入れを持つに至る心境の変化が、短い描写ながら説得力をもって伝わってきます。

 『万引き家族』は他の場面も計算しつくされて作られているので、今度また語っていけたらなと思います。

『リズと青い鳥』の魅力:人の奥深さはかわいいもの

 『リズと青い鳥』を観てきました。『響け!ユーフォニアム』シリーズは小説も読んでアニメも観て、3年間向き合い続けてきたのですが、本作でついに鎧塚みぞれの内面に触れることができたように思います。

 

 みぞれと希美は『響け!ユーフォニアム』シリーズの登場人物の中でも魅力的な2人なのですが、なにせ抱えている感情が重いために、小説もアニメも持て余してきました。小説では久美子からの客観的な視点で書くしかないし、アニメでもこの2人を描き切ったら本筋のストーリーが破綻してしまう。

 『リズと青い鳥』はそんな2人を主人公として、とことん深く内面を描いてくれました。校舎前で待つみぞれのところに希美が現れたとき、鉄琴と木琴が弾むように鳴ったところで、「あ、ここにみぞれがいる!」と感じました。

 今まで余白として想像するしかなかったみぞれの内面が、たしかな形をもって表現される日が来るとは。みぞれが好きで『響け!ユーフォニアム』を読んできたので、とても感慨深いです。

 

 そんな『リズと青い鳥』を宣伝すべく、本作の映像作品としての魅力を率直に、かついろんな権威を借りて(^^; 語ってみたいと思います。アニメを普段観ない人にも伝えるつもりで書きました。

 

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言葉にできず、表情にも表せない心情を描く

 本作の魅力を一言で言うなら、「言葉にできず表情にも表せない心情を、たしかな形をもって表現していること」です。

 しかも鎧塚みぞれという無口で無表情な子の内面を、柔らかくみずみずしいものとして描いているのです。表に出せない感情だからといって、堅苦しかったり醜かったりするとは限りません。

 

「かわいい」の天才:山田尚子

 なにせ本作の監督は、『けいおん!』でデビューした山田尚子監督です。奥深い内面だってかわいく描いてしまいます。

 山田尚子が描く「かわいい」という概念は、私の知る限りのアニメ、いや近年の日本文化においても、最も奥深いものの一つだと思います。多くの人が知っている表現としては、美空ひばりの「愛燦燦」の歌詞、「人はかわいい かわいいものですね」に近いものだと思います。

 

 『けいおん!』の監督というとアニメをあまり観ない人には軽く思われてしまうかもしれませんが、山田尚子監督はいまや日本において最も評価されているアニメ監督の一人です。しかもまだ30代前半の若手です。アニメ作家に関心のある人で、山田尚子に注目していない人はいないでしょう。

 受賞歴を見れば一目瞭然です。『映画けいおん!』はアニメーション神戸賞・作品賞、『たまこラブストーリー』で文化庁メディア芸術祭アニメーション部門新人賞、『映画 聲の形』で日本映画批評家大賞アニメーション部門作品賞および文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞など、今までの劇場作品がすべて高い評価を得ています。

 

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萌えという様式

 さて、言葉にできない心情を描くということは、近年の数々のアニメ作品が目指してきたことです。

 言葉にできない心情を描くなら、実写で俳優の表情によって表わせばいいではないかと思われるかもしれません。それも一つの方法ですが、それで完全なリアリティを達成できるわけではありません。現実の人間の表情はイミテーションを含み、心情をそのままに表しはしないからです。

 現実の人間である俳優が、豊かな表情でありのままの内面を表してしまうと、少なからず現実を歪ませた表現になってしまいます。そのことへの批判として、実写映画でも表情を変えない作風が作られ、あるいは能のように面を被った役者が多様な心情を表現する、ということが行われているのです。

 

 アニメにおいて言外の心情を表すために主に用られてきた手法は、「萌え」という様式、およびそこからの逸脱です。

 まずは感情をそのまま表に出すことが許される、「少女」という存在を作ります。少女という虚構が許されるのは、その容姿が現実の人間とは違う、絵であるからということも要因の一つです。

 その少女に普段は型にはまった表情をさせるのですが、ここぞという場面で型になかった生々しい表情を描く。そのギャップによって、言葉と、現実の人間の表情という二つの制約を越えた心情を表現してきました。

 

 しかしこの表現方法も、ギャップを利かせるために普段はテンプレートな表情を描いたり、冗談めいた何気ないやりとりをさせたりという準備が必要です。そうなると、常に生の感情をもって生きる人間、というものを表すことはできません。

 ちなみにこの表現に特化して、最高に深い生の感情が表れる一瞬を描くのが、『さよならの朝に約束の花をかざろう』の岡田麿里だと思います。

 

緻密な作画は豊かな心情を証明する

 しかし山田尚子監督は別の方法を探してきて、本作でまた一段と洗練した表現に至りました。

 本作でもキャラクターデザインには萌えの要素があるのですが、萌えをテンプレートとして使うことは極力控えています。

 

 では『リズと青い鳥』では、何を用いて内面描写をしているのか。

 ひとつは緻密な作画です。キャラクターの目や顔の輪郭などの線を細やかに動かし、その動作によって視聴者の感覚に訴えています。アニメーションの基本的な方法ではありますが、線の動きの密度と的確さが群を抜いています。

 また主人公のみぞれを取り巻くものを、細やかに豊かに描いています。みぞれが餌遣りをするフグは透明なひれの動きまで見て取れますし、オーボエのリードを自作する手つきも指先に至るまで繊細です。

 このような緻密な描写が、みぞれが見ている小さな世界も豊かであることを示し、静かな中にも充実していてみずみずしいみぞれの内面を表しているのです。

 

偶然性の音楽

 もうひとつは音です。

 みぞれと、彼女が一途に想う相手である希美の内面を、彼女らの感情の動きに合わせて音符を落としたような楽器演奏によって表現しています。アドリブのように鳴らされた音は、ひとつでも違う音色やタイミングであったら物語が成立しなくなるくらいの、絶妙なバランスで演奏されています。

 そして2人の感情の音は、なかなか合わずにすれ違うのです。みぞれのオーボエと希美のフルートの演奏はピッチが合わないし、2人の靴音はテンポがずれてしまう。しかし一瞬だけ重なり合う瞬間が訪れ、その幸運が感動を誘います。

 この音による表現は、ジョン・ケージの偶然性の音楽をオマージュしているものと推察されます。私は音楽にそれほど詳しくなく、書籍『表象 構造と出来事』を読んだだけの知識なので、この推察にどこまで信憑性があるかはわかりません。

 ただパンフレット上にて山田尚子監督が、「耳障りだと思うような音の中からでも純粋なうつくしい音を抽出したい」と語っています。また評論家の飯田一史さんもツイッター上にて、ジョン・ケージの書籍に『小鳥たちのために』というものがあることも挙げて、本作がジョン・ケージをオマージュしている可能性に言及しています。

 偶然性の音楽は理解しにくいものかもしれませんが、アニメの要素として盛り込まれると、親しみやすくその魅力が発揮されるのかもしれません。

 (※2018/5/7追記:以下のインタビュー記事でも、ジョン・ケージの偶然性の音楽について言及がありました。)

 

表象―構造と出来事 (表象のディスクール)

表象―構造と出来事 (表象のディスクール)

 

 

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画面と音のすべてを味わいつくそう

 以上のように、緻密な作画と趣向を凝らした音によって、言葉にも表情にも表せない心情を描いたのが『リズと青い鳥』です。

 本作を鑑賞する際のポイントとしては、まず動いている線に注目してほしいです。瞳やまぶた、あごの輪郭などの線が動いているところには、すべて重要な心情が込められています。

 また被写界深度による表現もあるので、画面の中でピントが合っているところと、逆にすごくボケているところもよく見るのがいいと思います。みぞれの認識に何が映り、何が興味の外にあるのかが読み取れます。

 

 もっともアニメにおいては映るすべてに意味があります。特に山田尚子監督は画面のすべてに意味を込めることの天才です。大変な情報量で描かれていますが、一切無駄なくすべてに読み取るべき感覚があります。

 上述のように、感情に合わせた音の表現も楽しめればいいと思います。

 他にも劇中劇でリズと少女の二役を演じた本田望結さんの演技や、みぞれと希美の足先の動き、互いに素のモチーフなど、語るべきことはいくらでもあります。しかしそれはまたの機会にします。

 これだけ語っても、本作の表層をさらったに過ぎません。恐るべき映画です。

『ウマ娘 プリティーダービー』オープニング映像の細部の魅力

 『ウマ娘 プリティーダービー』のOP & ED映像を公式がアップしてくれました。

 そうそう、ノンテロップで観たかったんですよね。P.A.WORKSのアニメのおもしろさが凝縮された、バカなことを超真面目に描いた映像になっています。

 

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 一番の魅力は言うまでもなく走りの作画。競走馬の擬人化という奇抜な設定を差し置けば、ひたすら徒競走を描写しているだけのアニメーションです。にもかかわらず大変な迫力が感じられる映像になっています。特にサビ部分では1フレーズの中に激走シーンを1カットないし2カット平然とぶち込んでくるので、ただただ圧倒されてしまいます。

 

 またほんの一瞬小さく映るだけの描写にも、多数の工夫が凝らされています。何度も注意深く観て一時停止もしないと確認できないことだらけですが、それらの工夫に気づかずに観ている視聴者にも、無意識レベルで説得力と迫力を与えているものと思われます。

 以下、P.A.WORKSファンとしてこのオープニングの魅力を語っていきます。私が気づいたことほぼ全盛りで、細部の描写を中心に書きました。

 ちなみに私は競馬をほとんど観たことがなく、ネットで調べた情報だけで書いています。確認目的で実際の競馬の動画もいくつか観ましたが、こちらもとても迫力がありました。

 

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冒頭~タイトルロゴ

 まずオープニング冒頭は競馬場内を入り口から映して、本作ならではの舞台を提示するところからスタートします。緻密で鮮やかな背景と、大勢のモブの描写は、一目でP.A.作品とわかる明快な特徴です。

 背景はP.A.が作っているわけではありませんが、P.A.の作画力とモブを描く能力が、この背景のアニメでの使用を可能にしているのでしょう。キャラクターを常に崩さずしっかり動かすことができ、また引きの画面で大勢のモブをCGで動かすことができてこそ、背景とキャラが相まってリアルな空間を作ることができます。

 

 次に歌の入りとともに、舞台上で歌うスペシャルウィーク(以下、スペちゃん)を横から映すカット。歌に合わせた表情の動きが丁寧に描かれています。

 なぜライブをするのかは意味不明ですが、これだけ見栄えがいいのだから別にいいでしょ?といわんばかり。謎設定があるアニメでは、このように視聴者の疑問を力技でねじ伏せる描写がとても重要です。

 カメラがスペちゃんの横から正面に回りこむところも見事です。回り込みをちゃんと描けるアニメはそうそう多くありません。それを何気なく見せてしまうあたり、このオープニング映像全体に通じる蕩尽の姿勢を感じます。

 私としてはちょっと不満なのが、その後ズームアウトしたときに舞台上にスペちゃん一人しか立っていないことです。「日本一のウマ娘になりたい」というスペちゃんの目標どおりなのかもしれませんが、映像的にはちょっと寂しいです。

 

 その後はいわゆる「カメラが下からグイッとパンしてタイトルロゴがドーン!」。

 でもただのテンプレで終わらないのは、上空に上がったカメラが再び下を向くと、スペちゃんが育ってきた北海道の牧場が映っているということです。アニメオープニングお決まりのパンナップからのロゴ表示でありながら、舞台の転換を連続的に描いた表現にもなっているので、かえってリアリティを補強しています。ちなみにこの牧場は現実の競走馬の情報と照らすと、日高大洋牧場と思われます。

 

北海道のシーン~トレセン学園教室内のシーン

 次に牧場の道を走るスペちゃん。普通に走っているだけですが、画面奥から手間へと走ってくるところを何気なく描いているのがすごい。

 またスペちゃんが手間に来て横顔のアップになるときに、背景に手ブレボケが入ってから、次に背景が青空だけになるという嘘の表現をしています。さらっと虹フレアを入れてごまかしていますね。似たような表現がこの後も何度か使われていますが、背景のリアルさと嘘の表現を見事に両立しています。

 

 次のカットは一両編成の電車が、スペちゃんの故郷の駅から発車するところ。次のカットでスペちゃんの育ての親が映り、次にトレセン学園の登校シーン。この登校シーンでは少なくとも15人のキャラクターが動いています。電車と動くモブは、第1作『true tears』からCGモブをずっと磨き続けてきたP.A.のCG班のなせる業です。

 スペちゃんとエルコンドルパサーとのハイタッチも丁寧に描かれていますね。

 スペちゃんが手を上げつつ声をかけて、エルコンドルパサーが気づいて振り向くという一連の流れ、ハイタッチするときのしなうような関節の動き、手を横方向だけでなく上にも動かしてソフトに触れ合わせる感じ、手を離した後に丸く握りなおすところまで、引きの画ながら細やかに描かれています。

 

 次に教室内を前の扉付近から映したカットは、空間を広く使った描写になっています。

 左手前には机に寝そべるセイウンスカイ。右端からスペちゃんが画面に入ってきて、教室右後ろの席へ向かいつつセイウンスカイに挨拶し、気づいたセイウンスカイも手を挙げて返事をしてから、セイウンスカイは居眠りにつきます。それと並行してハルウララが教室の一番後ろを左から右へと元気に走ってきて、スペちゃんと合流して会釈しつつ席に着きます。キャラクター同士のやり取りが画面の端から端へと交わされる描写になっていて、教室の中にいろいろな個性のキャラクターがいることを窺わせるシーンです。

 

 次にウマ娘たちがジャージを着て、競技場でランニングするシーン。ウォッカダイワスカーレットが押し合っているのがかわいい。この2人は、トレーナーが映される次のカットの後、トレーニングルームでもまた競い合っています。2人の後ろにいるスペちゃんやサイレンススズカたちの動きも、細やかに描かれています。

 

 ゴールドシップのいたずら…失敗!

 そして次は本気のギャグシーン。

 カフェテリアでメジロマックイーンが文庫を読みつつコーヒーを嗜んでいたところに、後ろの席からゴールドシップメジロマックイーンの手元にある砂糖とマスタードを入れ替えるいたずらをします。メジロマックイーンは文庫に夢中で気づかずにマスタードを手に取ってしまいますが、握る力が強くてマスタードが噴き出し、ゴールドシップの目に命中。ゴールドシップは驚き仰け反って砂糖を落としてから、机に突っ伏して脚をバタバタさせて痛がります。メジロマックイーンは気づいて後ろを振り向くも、関心は薄そう。

 2人の人物といくつかの小物が絡んだ複雑な描写を、完璧に仕上げて笑いを取ってきます。

 

チーム・リギルの強敵感

 次に回るトウカイテイオーと、彼女を見て目を回すチーム・スピカの面々。どっちもかわいい。トウカイテイオーの髪の動きと、光の当たり方が見ものです。

 そしてサイレンススズカが振り返って走り出すところと、それを見てスペちゃんが憧れるシーンがあり、次に東条ハナ率いるチーム・リギルのメンバーが、並みいる強敵とばかりに映されます。

 漫画チックにポーズを決めるキャラ紹介シーンですが、ちゃんと指先や肩首の関節が動いたポーズ取りになっているところがすばらしい。

 

圧巻のサビ! ダイワスカーレットウォッカの激走

 そして本題はここから。圧巻のサビ30秒間です。

 まずゲートから18人のウマ娘たちが出走するカット。サビの入りはインパクトのある画面にするのが定番ですが、このカットはえらく説明的で印象は弱いです。ゲート脇に控える作業員たちまで映されているという、客観性の強い画面になっています。もちろん18人のウマ娘たちが走っているので、CGの物量は相当のものでしょう。

 このオープニングではサビの入りで主張する必要は無いように見えます。これからずっと怒涛の描写が続くので、その入りとしては印象控えめのほうがバランスがいいのです。

 

 次に大勢の観客が歓声を挙げ、紙ふぶきを舞わせるカット。

 そして2008年有馬記念ダイワスカーレットの疾走シーン。ここでは走りの作画を直球で見せつけてくれます。キャラの容姿を無視すれば、純粋たる徒競走のアニメーションです

 ダイワスカーレットを追う他のキャラたちがいる後方の背景を白飛びさせることで、ファンタジックな感覚を醸し出しています。またこの白飛びと連続させる形で集中線を描いています。リアルな走りの作画および背景と、漫画チックな迫力の表現とを、絶妙に共存させた描写になっています。

 

 次に2009年安田記念ウォッカ。前を塞ぐファリダットディープスカイの間を、縫うように抜き去る描写が痛快です。

 ここも細部で光っているところが3点あります。1点は抜かれるファリダットのまばたき。ウォッカに抜かれて呆気に取られている様子が伝わってきます。

 2点目は背景の木々の奥に、ビルが頭を覗かせているところ。これこそ、競技場という空間にリアリティを感じさせるポイントでしょう。

 広い平らな草地が木々に縁取られていて、その外にビルが見えるというのは、競技場ならではの景観です。カット後半のウォッカの横顔を映しているところでも、背景がかなりボケていますがビルはちゃんと描かれています。

 3点目は、ボケが強い背景の中にも、ゴール板がちゃんと描かれていること。

 その前の抜き去りシーンからウォッカの横顔への移り変わりのところで、背景とキャラクターを一瞬でフェードアウトさせるという大嘘をついています。これだけだとリアリティを損なってしまうのですが、後でゴール板というその場特有の物体を映すことで、リアリティを補っています。

 

ゴルシワープ!

 そしてこのオープニング最大の見せ場である、2012年皐月賞ゴールドシップによるゴボウ抜き。2カット目の、手前へと激走してくるゴールドシップの作画が最大の魅力ですが、それ以外の細部の描きこみにも見どころが満載です。

 まずウマ娘たちを後方から映した1カット目ですが、後ろを気にする2人のウマ娘の顔だけでなく、追いすがるゴールドシップの顔もほんの一瞬映ります。基本的には走りの作画で圧倒してくるシーンですが、気づくかどうかくらいの瞬間的にでも顔を見せることで、ドラマ性も加味しているのです。

 2カット目でもゴールドシップの追い抜きに、周囲のウマ娘たちが反応を示しています。向かって右手を走るメイショウカドマツと思われるウマ娘は、前を走っていて余裕→抜かれて唖然→表情を引き締め直す(この間1秒程度!)、というように細やかに変化が描かれています。

 

 背景にも要注目です。桜が咲いているのは実際の2012年皐月賞の状況どおりです。そして桜の奥には生垣があり、その間に門扉があり、奥には競馬場外の電柱も映っています。

 ゴールドシップの現実離れした激走シーンにも、現実の場所のディテールを欠かさずに描いているところが粋です。実際の競馬を見てみても、現実の競馬場で馬たちが走る光景に大変な迫力とロマンがあるのです。だからアニメも現実的に描いた上で迫力を発揮するというのが、誠実な描き方なのだと思います。

 

 その一方でリアリティと映像演出を巧妙に両立しているのが、陽炎の撮影効果です。

 画面中段の奥、柵の手前あたりの背景が、揺らぐように処理されています。日中の競技場なので陽炎が出るのはリアリティを感じさせます(ただし2012年皐月賞で実際に陽炎が出ていたのかは調べがつきませんでした)。それだけでなく、リアルな風景の中でキャラクターたちが走っているだけのこのシーンに、ファンタジックな迫力を与えているのがこの陽炎なのです。

 

トウカイテイオーメジロマックイーン

 次は1993年有馬記念トウカイテイオーの走駆。

 広角で斜めに傾いた構図で、トウカイテイオービワハヤヒデの脚の動きを目立たせつつ、後方のキャラクターたちも映しています。トウカイテイオーがただビワハヤヒデを抜くだけでなく、インコースににじり寄るように動いているのがいいですね。実際の1993年有馬記念の動画ではそのような動きは見て取れないのですが、アニメとしては勝負に懸ける熱意が感じられて見応えがあります。

 次の次のカットでトウカイテイオーが泣き笑いになるシーンは、その直前の思いつめた表情とでギャップが利いています。このオープニングは前半はコミカルでかわいいシーンが多く、サビ部分は迫力のある走りのシーンがメインで、このカットだけがストーリーのシリアスさを匂わせています。それだけにこの1秒強のカットに、感情の重みを凝縮して印象づけているのでしょう。

 

 雨の中でのメジロマックイーンのシーンは、走っている彼女の表情にクローズアップしています。

 見た目としては地味になりそうなところを、カメラの縦回転で迫力を出しています。このカメラの回転にどのような意図があるのかはわかりませんが、迫力があるということが第一で他に意味は求めなくてもいいのかもしれません。カメラが回転して上下反対になっているところでも、背景はしっかり描かれています。後方には追ってくるウマ娘たちがいて、カメラが回転して前を映してもそこに走る者は無し、ということが見て取れます。

 

サイレンススズカのIF

 サイレンススズカのシーン1カット目は、画面が上下に2分割されていて、上半分が引きで下半分が寄りという、テレビ放送を思わせる画面作りになっています。

 2カット目でサイレンススズカが加速するところは、脚や髪の動きの作画がすばらしい。後方を走る2人の走りも良く描かれています。蹴られた地面が抉れているのも芸が細かいです。

 3カット目はリアルな走りの作画で、右側の遠景もリアルに描きこまれている一方で、画面周辺が集中線で囲まれていて、左のコース柵も左下に引き伸ばされるように歪んでいます。疾走の迫力を感じさせる嘘を巧妙に盛り込んでいます。

 

 そして白一色の背景の中で、サイレンススズカにスペちゃんが追いついて併走するシーン。

 実際には実現しなかった組み合わせらしいので、空想的な画面になっているのでしょう。トウカイテイオーの泣き笑いのシーンもそうでしたが、ドラマをみせるカットでは走りのピッチが半減しています。メリハリが利いていてシーンがもつ意味の違いを読み取りやすくなっています。しかもテンポが半減してもなお、十分によく動いている作画であるといえます。

 

ラストは夢の世界へ?

 そしてスペちゃんとサイレンススズカが雲の上を走って府中の上空へと飛び出す、「ウマ娘が飛ぶわけ…飛んだぁー!」のカット。

 地味に脚が猛スピードで動いているのもさることがなら、飛び出す前の踏み切り動作をしっかり描いているところにも要注目です。

 

 ラスト1つ前のカットは、空を飛ぶスペちゃんとサイレンススズカの影が満月に映るという、コテコテのE.T.オマージュ。その空想の自分たちを校舎の窓から見上げるスペちゃんたちが映され、これがラストカット。

 オープニングの歌詞に「駆け抜けてゆこう 君だけの道を」とあるだけに、本作では夢に思い描いた自分たちを追い求めていく、というスタンスなのでしょう。

『さよならの朝に約束の花をかざろう』レイリアについて 因果の量子化?

※この記事は『さよならの朝に約束の花をかざろう』(以下、『さよ朝』)のネタバレを含みます。ご了承の上お読みいただければ幸いです。

 

『さよ朝』でレイリアがあれだけ会いたいと願っていた娘のメドメルと邂逅したところで、別れることを決意して祈りの塔から飛び立ったシーンは、感動しつつも解釈に苦しみました。観終わった後も何度も反芻して、もう一度観て考えて、ようやくある程度形のある解釈に至ったので書いてみたいと思います。

 

といっても、その解釈というのは「答えがない」という答えです。「因果の量子化」とでも言えそうなストーリー構成によって、レイリアの行動の是非を観客がどう解釈しても許されるようになっている、という結論に至った次第です。

 

 レイリアがメドメルと別れるに至った原因としては、彼女がメザーテの王宮に囚われてしまったという不遇か、もしくは勝気で周囲と不和を起こしやすいという彼女の未熟さのどちらかに原因を求めたくなります。しかし、レイリアがもし不遇でなかったとしたら、あるいはもし未熟でなかったとしたらというifを考えても、やはり彼女はメドメルと一緒の道を歩むことはできそうにないのです。

 

 まずレイリアがさらわれなかったり、あるいはメドメルを産む前に脱出できるだけの度量が彼女にあったりした場合は、もちろんメドメルは産まれてきません。

 またメドメルが産まれた後にレイリアが脱出するとしても、メザーテから追われる危険のあるところにメドメルを連れて行きはしないでしょう。さらに言えば脱出するにはクリムを頼るしかありませんが、クリムはメドメルの存在を認めません。なおさら脱出するならメドメルとの別離は避けられないのです。

 もしくは境遇に恵まれてレイリアがメザーテ王室の一員として受け入れられたとしたら、戦争の際に王や王子たちと一緒に逃げることになり死んでいたと思われます。

 このようにレイリアが不遇でなかったり未熟でなかったりしたら、より確実にメドメルと別れることになりそうなのです。

 

 レイリアが不遇で未熟であったからこそ、祈りの塔の上でメドメルと再会し、一緒に歩めるかどうかの際まで至ることができたのです。そこでレイリアが別離を選んだことは、結局のところレイリアとメドメルが言葉を発したタイミングの問題で決まっています。

 

 レイリアはメドメルに呼びかけようとして、その直前にメドメルから「誰…?」と言われてしまうまでは、メドメルただ一人を自分と一緒にいるべき者として求めていました。しかし「誰…?」と問われてしまったことで、レイリアはメドメルと異なる時間を歩んでいたことを悟ります。自分はメドメルに必要とされる存在ではなかったと気づくのです。

 しかしその直後に、メドメルは目の前に立っているのが自身の母であることを察し、慌てて呼びかけようとします。しかしその呼びかけに僅かに先んじて、レイリアが別離を宣言して飛び立ってしまう。※)はじめのレイリアの呼びかけが、あるいは次のメドメルの言葉が少しでも早ければ、共に歩む道を選べたかもしれない。最後の最後は言葉のタイミングという、確率的なことによって別れることに決まってしまったのです。

(※追記:上記誤りがありました。もう一度観てみたところ、メドメルは「お母さん」と呼びかけていましたね。メドメルからの呼びかけの前に、レイリアの意志は決まってしまっていました。)

 

 このように共に歩むか別れるかという二者択一が結局は確率の問題で決まりましたが、そのような結末を創作者である岡田麿里は確定的に書いています。だから観客はレイリアの振る舞いについて、その原因も含めて解釈することを求められます。しかしストーリー上は確率によってもたらされた結末なので、観客がそれぞれに解釈を下すまでは、その答えは確定せずにゆらいでいるのです。

 このことをもって「因果の量子化」と言っています。(ただ脚本の技法として既存の用語があるかもしれないので、もし知っている人がいたら教えてほしいです(^^;)

 

 物語の読み方は人それぞれでいいとはよく言われますが、どんな読み解き方も容認されるようにとことん綿密な構造でストーリーを組むところが、岡田麿里の真骨頂ではないかと思います。

 レイリアについて観客がどのような答えを出しても、それは正しいことになります。レイリアを許してもいいし許さなくてもいいし、救われてもいいし憎んでもいいわけです。

 

 なおストーリーの見せ方として、レイリアの行動はたしかに未熟なものとして描かれていますが、同時に彼女を許す描写もあります。

 まずメドメルの「お母様って、とてもお綺麗な方なのね」という言葉と、マキアの「大丈夫。絶対に忘れないから。」という言葉によって、レイリアの行動がただの放棄として割り切られないようになっています。そしてレイリア自身がメドメルを産んで彼女を想った日々のことを、決して忘れられないということによって、レイリアの歩みは無価値なものにはならないのです。

 どんな不格好な形であれ、イオルフの長老ラシーヌの「外の世界で出会いに触れたなら、誰も愛してはいけない。愛すれば本当のひとりになってしまう」という言葉を、レイリアもその生き方によって否定したことに違いはありません。

 

 最後に余談ですが、メドメル役の久野美咲さんの演技もすばらしかったです。

 言葉数は少ないですが、絶妙なニュアンスが込められた一言一言に圧倒されました。祈りの塔の上でレイリアに会う前に言った「ここを降りれば今までとは違う日々が待っている。それでも、私は…」という言葉は、最後の「は」の一音だけでメドメルの前向きな力強い意志を表現しています。

 そして「お母様って、とてもお綺麗な方なのね」というセリフも、言葉そのものだけではレイリアを容認するものにはなりません。少しでも強めに発音されていたら皮肉交じりの非難になってしまっただろうし、逆に弱弱しく発音されたら傷心的な諦めに聞こえてしまっていたでしょう。

 メドメルがレイリアの決断を必死に理解しようとしつつ、レイリアという母のことを受け容れていることが、久野さんのぴったりのニュアンスの演技によって表現されていました。