戯画調査隊

アニメを観て思ったことをひたすら書いていきます。本について書くこともあるかも?

『万引き家族』 - 信代がじゅりとの境界を越えるまで。

※ネタバレありです。ただし映画館で観たときの記憶をもとに書いているので、内容に正確でない部分があるかもしれません。ご了承ください。

 『万引き家族』はおもしろい。寄り添うようにして観たい映画。

 こう言っては良識を疑われるかもしれませんが、私にとって『万引き家族』はとてもおもしろい映画です。

 あの疑似家族の面々が愛おしくて、観ていて心地よく、くすっと笑えて、しかし後半の顛末にはやるせなさを感じてしまう。エンターテインメントとしてどハマりしたのです。

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  どうしても本作は社会的意義のようなものを題材に論じられがちですが、まずは社会や善悪などを離れて、あの家族を見たままの感覚を私は大事にしたいです。

 その感覚を徹底的に掘り下げたら、あとは観客おのおのの価値観のままに、どこかにいるかもしれないあの家族のような人々に思いを寄せられたらいいのではないでしょうか。それしか言えない。それしか言えないところにすごく深いものがあるから、『万引き家族』は傑作なのだと思います。

(ただし、この『万引き家族』そのままの人々というのもまた現実には存在しません。彼らは想像上の家族です。想像上の人々だからこそ、現実のいろいろな人へ思いを致す架け橋になってくれるのです。)

 

 そんなわけで、『万引き家族』の登場人物たちになぜ私が愛着を持てたのかを読み解くべく、本作の演出について語っていきたいと思います。

 今回は序盤で信代がじゅりを厄介者扱いしていたところから、じゅりを実の親に返すことを拒んで自分の娘のように慈しむに至るシーンについて語ります。

 

 ちょうど先日、塩田明彦映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』を読んだので、この本の解説を頼りに読み解きました。本書に書いてあった、境界を越える動き(動線)、顔による表現、動きによる表現の3つが、今回扱うシーンにはっきりと見て取れます。

ガラス戸を隔て揺れる、信代の心

 序盤に治と祥太が万引きした帰り道にて、日が暮れた時間に一人で家にいたじゅりを、治たち疑似家族の暮らす平屋に連れて帰ります。治の妻の信代は居間に入ってきたじゅりを見たとき、2つの心の間で揺れ動きます。2つの心というのは、じゅりを厄介な物として扱う心と、じゅりを娘のように思う心です。まずこの信代の心境の揺れについて読み解いていきます。

 

 治はじゅりを居間に上げて、コロッケなどを食べさせようとします。その様子を信代は台所から見ています。

 台所と居間は狭い廊下で隔てられていて、台所にはガラスの引き戸があって、この戸が半分閉じています。このガラス戸が境界としての役割を果たし、信代とじゅりとの隔たりを表しています。ガラスが擦れていて半透明になっているのもニクいですね。

 

 信代は治に「もっと金になるもの拾ってきなさいよ」「通報される前に返してきな」と告げます。この言葉を発しているとき、信代にとってじゅりは物でしかありません。金にならないどころか食事をして金を減らしてしまう厄介な物であり、外の人間に見つかれば犯罪者として扱われかねない危険をはらむ物でもあります。

 

 しかしこれらの言葉を言う合間に、信代はじゅり本人に対しては優しく声をかけています。小さな女の子への慈しみが感じられる声音ですが、信代がそれ以上の感情をもってじゅりを見ていることが少し後の描写から見て取れます。

 信代が「通報される前に返してきな」と言った後に、信代が顔を動かして擦れたガラス戸の後ろに隠れます。そして信代が再びガラス戸の脇から顔を出したとき、信代の視線がじゅりのほうをじっと見つめているのです。じゅりに対して母と娘のように接することができないかと、淡い期待を抱いているものと想像できます。

 ガラス戸に隠れる前と後とでじゅりへの眼差しが変わるように、信代の心はじゅりとの隔たりを越えようかどうか逡巡しているのです。

 

境界を越える。

  そして治と信代とでじゅりを家に返しに行こうとしたときも、信代とじゅりの間には境界があります。治がじゅりを背負っているということが、その境界です。信代とじゅりは同じ地面を歩いておらず、また治とじゅりは身体の接触があるのに対して、信代にはそれが無いのです。

 

 しかしいよいよじゅりの家の前に来て、じゅりの両親の罵り合いを聞きつつも治がじゅりを返そうとしたとき、この境界が破られます。

 治がじゅりの家の様子を覗こうとしてじゅりを背中から降ろし、じゅりの肩に信代が手を置きます。そしてじゅりの母親が「産みたくて産んだんじゃない!」と叫んだとき、信代は座り込みつつじゅりを抱きすくめます。

 

 ここで『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』にて書かれていた、3つの演出が読み取れます。境界を越えるということと、顔による表現と、動きによる感情表現です。

 境界を超えるということは今まで述べてきたとおりです。信代とじゅりは、治たちの家の中ではガラス戸で隔てられていて、またじゅりの家まで来る際も、治が背負っていることによって隔たりがありました。しかし信代がじゅりを抱きしめるという身体の接触によって、境界が無くなりました。

 

じゅりを離したくないという、信代の顔と動き。

 またこのとき、信代は言葉を発することなく表情も無くします。信代役の安藤サクラさんは、被写体として撮られる顔を作ることによって、複雑な感情を表現しているのです。

 じゅりの母親の「産みたくて産んだんじゃない!」という言葉に対して、悲しい顔をするでも怒りを表すでもないんですね。ここで無表情になるからこそ、信代の中で複雑に感情が渦巻きつつも、その感情が単なる怒りや悲しみ以上の、じゅりへの慈愛というものさえも凌駕する激しいものであることが伝わってきます。

 

 さらに信代がじゅりを抱きしめつつ座り込んでしまうという、動きによる表現も行われています。

 あれだけ闊達で口数の多かった信代が、力なく座り込んで無言になってしまうのです。それでいながら治がじゅりを引き離そうとしても、信代は頑としてじゅりを離しません。普段は元気に動く信代だからこそ、静かな動きに強い感情が宿って見えるのだと思います。

 

 このようによく計算された演出と演技によって、信代がじゅりに強い思い入れを持つに至る心境の変化が、短い描写ながら説得力をもって伝わってきます。

 『万引き家族』は他の場面も計算しつくされて作られているので、今度また語っていけたらなと思います。